部屋を整える。
静寂の中で瞑想する。
日々の思考を記録する。

本来、行動とは「快」を求めて自然と動くもののはず。
きれいに整った空間の清々しさや、精神が安定する心地よさ。
それらを享受するために、私たちは動くのだと思います。

しかし長い間、私の行動原理は「快」ではなく「義務」に近いものでした。
「部屋を綺麗にしたい」という気持ちが芽生えた瞬間、間髪入れずに内なる裁判官が判決を下すのです。
「そう、やるべきだ。汚い部屋など恥ずべきことなのだから!」と。

その声が響いた瞬間、本当は「やりたい」ことだったのに、鉛のように重い「やるべき」へと変質してしまう。

内発的な思いは強制力に塗り替えられ、心は瞬時に扉を閉ざしてしまいます。


強制は、必ず反発を生みます。
「いつか気が向いたらやるわ」という先送りは私の怠惰などではなく、自分自身による支配へのせめてもの抵抗だったのです。
(宿題しなさい!と言われると、反発する子供みたいですね。)

なんとか上部だけでごまかしてきたのですが、数年前ついに飽和点が訪れました。
「私に強要するな!」
理屈では説得しきれないほどの強烈な拒絶感が湧き上がってきました。
それは、自分自身の主権を取り戻そうとする反乱(レジスタンス)だったのだろうと思います。

書けない、続かない、動けない。
それは無能さの証明ではなく、魂が「自由」を求めてストライキを起こしていたに過ぎなかった。

動けなかったのではない、と今は思えます。
自分自身の声に抵抗し、動くことを拒否していたのです。

それが「義務感」という名の、無意識の楔(くさび)であったと気づいた今、何かが少しずつ変わり始めていると感じます。

楔は、刺さっていることに気づきさえすれば、自らの手で引き抜くことができるから。
私は自分の意思で少しずつ進むことを選びました。