人生に「方程式」を求めない。気象予報士ではなく「旅人」として生きる

人生に「方程式」を求めてしまう癖
「あの人が成功したのは、〇〇をしたから」
「うまくいかないのは、努力が足りないから」
「金運が悪いのは、感謝が足りないから」
人はこんなふうに、人生のすべてに「原因と結果の法則」をあてはめようとする癖があります。
なぜなら「AをすればBになる」という方程式があれば、安心できる。
そして方程式通りなら成功は再現できるし、失敗は予防できると信じられる。
ある種、それは「損得勘定の方程式」と言えるものかもしれません。
けれども本当にそうなの?
というか、この考え方をしていたら人生は辛いんじゃない?
そんな思いが湧き上がってきたのです。
「努力したから健康である」という傲慢さ
きっかけは、知人に「あなたは何の薬も飲んでいないの?」と驚かれたこと。
確かに周囲を見渡せば年齢と共に血圧の薬を飲んでいたり、何かしらの不調を抱える人が増えています。
そんな中、私はありがたいことに毎日を恙無く(つつがなく)過ごせています。
私は20代後半から食に興味を持ち、マクロビオティックなど体に良い食事を心がけてきました。
いわゆる「健康でいる努力」をしてきたのです。
だから無意識に「私が生活習慣に気をつけてきたから(原因)、今の健康がある(結果)」と、ロジカルに考えてしまいそうになります。
でも、ここで「もしも」を想像してみたのです。
「もし明日、私が病気になったら私はどう感じるだろうか?」と。
それは反省ではなく「自分いじめ」かも?
望まないことが起きた時、因果関係を求めていたら私はきっと必死に原因を探すでしょう。
「私の何がいけなかった?」
「砂糖を摂りすぎた?」
「あの時のあれが悪かった?」
こんなふうに原因を探す自分が見えます。
けれども、そんなことをして何になる?
それは単なる自分いじめにすぎないでしょう。
なぜなら、いくら過去を掘り返しても「本当の原因」なんて分からないから。
人生には、遺伝、環境、タイミング、運……人智を超えた無数の要因が複雑に折り重なっています。
それらを「神ならぬ身」である私がすべてコントロールできると思うこと自体が、実は傲慢でしかないでしょう?
根本に「すべては自分でコントロールできる」という無意識の過信にすぎない。
過去、私が「なぜ結婚できないのだろう?」と悩み、原因を探し続けていたのもまさにこの「因果関係の迷路」に迷い込んでいたからでした。
原因を探し、それを埋める。
特定の原因なんてわからないのだから無謀な、そして終わりのない悪循環。
気象予報士ではなく「旅人」として生きる
だから今は、その「原因を探すクセ」を手放す勇気が必要だと感じています。
ついつい、原因を探してしまう思考のクセ。
あまりにも馴染みすぎていて、透明になってしまった思考のクセです。
だけど、いきすぎた原因探しはつらさしか残さないことも多々ある。
だから「なぜ?」と過去を分析して自分を責めることで、生きるエネルギーを漏らすのはもうやめたい。
どれほど過去分析をして原因を探しても、どうにもならない。
できるのは「今を整えること」ではないかしら?
アプローチできるのは「今だけ」だから。
雨が降ってきた時。
「なぜ降ったのか? 私の行いが悪かったのか?」と空を恨んでも雨は止まないでしょう。
私たちにできるのは、ただ静かに傘をさすこと。
あるいは、雨音を楽しみながらお茶を飲むこと。
どちらを選ぶこともできる。
「なぜ」は分からなくても、心地よく過ごすことはできる。
人生の天気をすべて予測し、理由を解明しようとする「気象予報士」のように生きるのではなく。
どんな天気であっても、その時々の景色を楽しみながら歩を進める。
そんな、軽やかな「旅人」のあり方を選択したいと思うのです。
「自分でコントロールする」感覚を手放し「大いなる何かに委ねる」そんな感覚を持ちたいのです。






