「なんとなく」を捨てると日常の質が変わる

今日、時間をただ「なんとなく」消費していないだろうか?
今日という一日が、指の隙間からサラサラとこぼれ落ちていくような感覚を持つことがあります。
その正体は、行動から「意図」が抜け落ちていること。
お腹が空いたから食べる。
眠いからコーヒーを飲む。
それは私の意思ではなく、体の欲求に対するただの「反応」です。
単に刺激に反応するだけで過ごす時間は、澱(おり)のように精神を曇らせていきます。
これと真逆の体験をする場所があります。
それは茶道のお稽古。
茶道という型の中に身を置くとき、とても清々しい気持ちになります。
茶碗に手を伸ばす時。
柄杓を持ち、その軌道ひとつ、指先の形ひとつに明確な意思を宿す。
湯の重みを感じ茶碗い注ぐ時、呼吸を合わせる。
そこに「なんとなく」の入り込む隙はありません。
極限まで神経を研ぎ澄まし、余計な思考が削ぎ落とされたとき、初めて自分自身がクリアになります。
自分が整う体験です。
「整う」とは、安らぐこととは少し違う気がします。
一瞬たりとも気を抜かず、今、この瞬間に命を注ぎ込ぎ味わうこと。
今、ここに在ることで自分が整います。
茶室で得たこの感覚を日常に持ち出したいのです。
日常のあらゆる動作において、「なんとなく」を捨て、「こうする」と決めて動いてみる。
その繰り返しが、ノイズを消し去り、今ここにいる感覚が強くさせてくれると。
精神がクリアである状態とは、こうして自分でつくり出していくものでしょう。
意図を持って動く。
それだけで気持ちの澱みが薄らぎ、時間の密度がグッと濃くなるのを感じます。
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